琴平海洋博物館(海の科学館)で展示する資料の一部を紹介します。
こんぴらさんは、航海の安全を守る海の神様です。昔から船乗りたちの大切な守り神でした。天下泰平の江戸時代、庶民のあいだにはこんぴら参りが大流行しました。お参りの人々を大阪等から四国(主に丸亀・多度津の港)へ運んだのが金毘羅船です。人が集えば、物が集まり市がたち、船着き場ではお参りに行く人、お参り帰りの人、商売人や船乗りらが賑やかに行き交いました。
※展示している船の大きさは100石積です。船内に入ることは出来ません。
霧笛(むてき)/霧中号角(むちゅうごうかく)は、霧などで視界不良の時に船の位置を周囲に知らせるために用いられました。霧の中で船との衝突を防ぐため、ふいごの仕組みを利用して空気を送り出し、取り付けられたラッパを鳴らす仕組み。足踏み式、手動式などがあり、フォグフォーンともいいます。近年まで、帆船等で使用されていました。
瀬戸大橋は岡山県倉敷市児島と香川県坂出市の5つの島を結ぶ6つの長大橋で鉄道と道路の併用橋です。
架橋工事は昭和53年(1978)10月に着工し、昭和63年(1988)4月に開通しました。瀬戸大橋の開通は本州と四国が直接陸続きとなることにより生活拡大や流通・産業立地等、四国の活性化に大きく関与しています。
その瀬戸大橋の架橋工事は、「水中発破」「海底掘削」「ケーソン製作・設置」「コンクリート注入」「塔の架設」「ケーブルの架設」「補剛桁の架設」「仕上げ」等の諸工事を経て完成しました。
本四架橋工事各作業船では、架橋工事に活躍した「しゅんせつ船・第8関門号」「海上作業船・盤石」「リクレイマー船・第32関門号」「モルタルプラント船・世紀」「移動式クレーン船・武蔵」等の作業風景を模型展示しています。
可変ピッチプロペラ装置は、操舵室の操縦ハンドルで羽根のピッチ角(ねじれ角度)を自由に変える機構を備えています。プロペラが回転しているときに油圧装置を利用して、主機関の回転数、回転方向は一定のままに船の前進・後進を切り替えたり、微速にしたりと容易に操作することができます。
※この装置は実際に操作することが出来ます。
御座船は西国大名が参勤交代に使った御召し船です。戦国時代は軍船でしたが、天下泰平の江戸時代になると大名たちは次第にその華麗さを競うようになっていきました。高松藩の飛龍丸はそうした御座船の典型で、大櫓52挺立・18反帆・500石積という当時としては建造が許される最大級の船でした。
弁財船(べざいせん)は、江戸時代から明治初期にかけ主に瀬戸内海を中心に活躍し、物資の海上輸送に従事していた木造和船の典型です。弁財船は船体中央にある四角い帆と補助的な弥帆で帆走し、帆を自在に操り向かい風でも帆走できました。また、船の大型化が進むつれ1000石積の船もめずらしくなくなり、次第に大型の弁財船を千石船ともよぶようになっていきました。
弁財船の代表には、大坂から江戸に木綿や油など日用雑貨を運んだ菱垣廻船、酒などを運んだ樽廻船、そして、日本海側で活躍した北前船などがあり、廻船(かいせん)とは、港から港へ旅客や物資を運んで回る船のことをといいました。
咸臨丸(かんりんまる)は、徳川幕府が海軍創設のためオランダ政府に注文して建造した軍艦です。安政4年(1857)長崎に到着した咸臨丸は、3本マストを有する木造蒸気船で12門の大砲を搭載していました。
幕府の長崎海軍伝習所の練習艦として活躍し、安政7年(1860)日米修好通商条約批准書交換のため、遣米使節団が派遣されるときに米艦のポータハン号に随伴する形で初めて太平洋横断に成功しました。このとき咸臨丸に乗船していたのが、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎等です。また、咸臨丸に乗り込んだ50名の水夫のうち、35名が塩飽諸島の出身でした。
※塩飽諸島とは、香川県と岡山県に挟まれた西備讃瀬戸に浮かぶ大小合わせて28の島々のことをいいます。
日本丸は、昭和5年(1930)に建造された海王丸との姉妹船です。船員を目指す商船校生などの訓練を行う練習船で、約120名の実習生を乗せて年2回程度の遠洋航海を行いました。35枚もある帆の面積は全部で約2400㎡あり、使用されるロープの長さは約50kmに及びます。昭和59年(1984)には新しい船が建造され、半世紀に及ぶ使命を終えました。
姉妹船の「練習帆船海王丸(模型展示)」は、3階にあります。
日本で最初の南極探検は、明治43年(1910)白瀬矗(しらせのぶ)中尉が南極探検隊を組織し、蒸気機関付木造帆船「開南丸」で出船したことに始まります。明治45年(1912)ついに南極大陸の南緯80度05分に達し、その地を大和雪原(やまとゆきはら)と名付けました。これは、アムンゼンの南極到達の翌年のことでした。
南極観測船(砕氷艦)「ふじ」は、昭和41年(1966)12月1日に東京港を出港し、オーストラリアのフリーマントル港を経由して、翌年1月14日に昭和基地に接岸しました。この南極の石は、南極観測船「ふじ」が第8次観測の時に昭和基地で採集したものです。
くれない丸は関西汽船の別府航路を代表する客船で、昭和34年(1959)7月に進水、昭和35年(1960)3月に大阪港-神戸港-松山港-別府港を結ぶ別府航路を就航し、船内施設の豪華な構造や船体の美しさから瀬戸内海の女王と呼ばれました。昭和55年(1980)に別府航路はフェリー化されることになり、フェリーに航路を譲り退役した後、昭和63年(1988)に日本シーラインによってレストランシップに改装され、現在は横浜港大桟橋を母港とするレストラン船「ロイヤルウィング」として現役を続けています。
昭和29年(1954)4月に福良-鳴門及び明石-岩屋の2航路が開設されていました。同航路に就航した船は両頭フェリーで、同航路は日本初の本格的なフェリーでした。この若鳥丸(263トン)は、昭和33年(1958)から福良-鳴門に就航していました。また、船体の両端側にそれぞれプロペラ装置を装備し、回頭なしでどちらへも進める両頭船でした。
あらかぜは、当時世界的にもめずらしい海洋で使用するオールアルミ合金船として建造され、4半世紀を超えて就航し、事故一つなく任務を全うした記念すべき船です。
昭和29年(1954)3月竣工以来、海上保安庁の巡視艇として北九州方面で20年間活躍し、その後、海上災害防止センターの訓練船として使用され、昭和56年(1981)1月就航後27年で廃船となりました。
長時間過酷な使用により、船体は接弦時などに生じた変形が部分的に見られますが、損傷・腐食などは全くなく、また船体から切り出したサンプルの強度試験でも材料の劣化は全くないことが確認されています。
2022年9月、「ふね遺産第41号」に認定されました。
※船内に入ることは出来ません。
この焼玉エンジンは、昭和36年(1961)3月に株式会社槙田鉄工所(現在は、株式会社マキタ)が制作した3気筒100馬力の焼玉エンジンで石材運搬船に搭載されていました。
焼玉エンジンは、1890年頃イギリスで開発されたレシプロ内燃機関の一種で、焼玉と呼ばれる鉄製の球を熱して、その熱によって燃料を気化した上で燃焼させ動力を得るものです。簡便な構造で高い工作精度を必要としないことから製造が容易であったため、多くの中小メーカーが製造していました。また、小型船舶等に適しており、始動に時間がかかり、ある程度熟練を要するものの、取扱いや整備に際してディーゼルエンジンほどの高度な技術も要さなかったため、第二次世界大戦以前の日本では広く普及していました。しかし、燃料消費量が多く出力も上げることができないため、次第にディーゼルエンジンに移行し、その姿は消えていきました。現在このサイズの焼玉エンジンが保存されていることは非常に稀です。